家事は女性の尊い天職
家庭的な仕事はもっと権威(けんい)をもち、且(か)つ尊重されなければならない。女性みずから家庭的な仕事(例えば炊事(すいじ)・洗濯・育児等)を軽蔑(けいべつ)して、外部的仕事に進出することによってのみ、男女同権になれるというような考え方をするときには、女性の本性そのものをみずから軽蔑(けいべつ)していことになるのである。炊事・洗濯・育児等が、会社の事務にくらべてまさるとも劣(おと)らない尊い仕事であることは、一日でも女性が家庭においてその仕事を廃(はい)したら生活が殆(ほとん)ど成立(なりた)たなくなる事実によって知ることが出来るのである。女性の地位を向上させるということは、女性が外部的な社会生活に進出することによらないでも、内部の家庭的仕事が如何(いか)に重要であるかを男性に知らせることによってできるのである。

 乾燥(かんそう)した会社の事務的な仕事だけが「人権」を確立するのであって、温かい柔しい優美(ゆうび)な家庭的な仕事が「人権」を低くするという考え方が間違っているのは、公平な眼(め)で見たら誰にもわかる筈(はず)である。女性の人権を尊重せしめることは、女性が家庭的な仕事から逃げ出すことによってではなく、家庭的な仕事の尊さを男性に覚(さと)らしめることによってである。

『新版 女性の幸福365章』谷口雅春先生著 P254

 

似た者・親子

 「似た者・親子」である。子を見れば親が分るのである。親の道徳観念や性格を子供は反映するのである。子供の相(すがた)を見て両親は「わが心の相(すがた)」と反省するがよい。
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 親の道徳観念や思想を子供は承()け嗣()ぐものであるが、親が圧制(あっせい)であったり、強制的であったり、親が冷淡であったりする場合には往々にして親と反対の側に立つ。子供は親を愛しているから、親から愛されたいのであるけれども、親が圧制や強制や冷淡の場合には子供は親から「愛されていないのだ」と思い、その復讐(ふくしゅう)のために反対の側に立つのである。

 親の生命も精神も、その子供に引継(ひきつ)がれているのであり、自分自身の人格形成の骨組になっているのであるから、親に反抗して子供が立っている場合には、子供は自分自身の人格に反抗している結果にもなり、その魂の苦闘(くとう)には堪()えがたきものがあるのである。その堪えがたさの苦悶(くもん)から、益々(ますます)親に反抗するようにもなる。親がもっと深い愛情を子に示すことが必要である。

(谷口雅春先生著『女性の幸福365章』P363



 

子供を尊敬したとき、親も尊敬される

 
子供の価値をみとめてやること、尊敬すること、理解してやること、寛大(かんだい)であること、個性を尊重してやること、そんな両親には子供は決してそむくものではない。

 両親は子供の対して威張(いば)る必要はないのである。子供は幼い時から、両親が子供には出来ない巨大な仕事を平気でやったり、自分を自由自在に持ち上げたりした体験の記憶(きおく)があるので、「両親は自分より偉いもの」という感じを潜在意識にもっているものである。それなのに殊更(ことさら)に威張(いば)ったりすると、子供は反感を起して親の欠点を見つけて、親の威圧(いあつ)に対抗しようとするであろう。親はもっと下へおりて子供と一緒になって 親しみ深い態度と言葉で接すれば、尊敬している人から愛される感激で子供は親を一層愛するようになるものである。愛されたい、認められたい、親の役に立ちたいのが子供の本性(ほんしょう)である。

子供を尊敬したとき、親は子供から尊敬せられる。

(谷口雅春先生著『新版女性の幸福365章』P360


罪は包みであり包は莟のようである

神の創造し給えるこの世界には決して〝悪″は存在しないのである。「罪」は悪であるから「罪」というものは存在しないのである。「罪」とはものでないのであってツツミたる状態である。ツツミて実相が隠覆(いんぷく)された状態がツミである。
 
゛神の子″でありながら、その実相をツツミて自覚しない状態が罪なのである。しかし状態は常に変わる。ツツミとツミとは日本語においては同一語源なのである。
 
状態は実在でないから常に変わる。ツツミはツボミ(莟)のようなものである。内に花の実相を含み、しだいにそのツツミが開かれて、美しい花の全相があらわれるのである。
 
花の全相が開いてしまったとき、そこにもう莟はない。それと同じく、実相を隠覆しないで、それを完全にあらわしさえすれば、すでにツミはないのである。
 谷口雅春先生著『如意自在の生活365章』P248

 

われらは常に進歩し向上す


種子から発芽した植物の新芽が徐々に生長して美しい葉をひろげ、茎や幹を伸ばし、枝を繁らせてついに蕾をもち花を開くようになるのは、すでに種子の中に宿っていた「精神的原型」(これを理念という)が時間・空間の秩序の中に展開しつつあるのである。
 
人間が進歩向上して行くのも、やはりこの植物の種子の中にある〝理念″が展開して行くのと同じであって、外から附加したものが展開して行くのではないのである。
 
むろん、植物の生長にも、肥料を与えることが必要であるのと同じように、人間の進歩向上にも、外から栄養物質や、精神的教養を与えることは必要である。しかし、どんなに肥料の成分を変化しても、朝顔には朝顔の花が咲くのであって、籐の花や、桜の花が咲くのではない。

肥料や土壌の成分は内部の〝理念″を変化するのではなく、内部の〝理念″を形の世界にあらわすための条件を供給するだけである。
 
条件が完全にはたらけば、その〝理念″の展開が大きくあらわれるし、条件が貧しければ〝理念″の展開する容積が縮小するのであり、あまりにその〝展開″を狭めるような条件では、内在の〝理念″がゆがめられて表現されるが、それは〝理念″そのものがゆがめられたのでも変形したのでもないのである。
 
どんなにゆがめられた形にあらわれている子供でも、それは内在の〝神の子″が歪められているのではなく、環境条件を整えれば、立派な〝神の子″の実相をあらわすにいたるのである。
 
それゆえに、人類をよくするには〝真理の教育″によって、内在の完全さに波長を合わせて、それを顕在にまで引き出すようにしなければならない。
 
                                                                                                                                                                                                              谷口雅春先生著『如意自在の生活365章』P286~287
 
 


心から〝弱さ″を追放せよ
 
人間が常に若々しく健康であるためには、心に〝健康″を常に想念して、〝弱さ″を自分の心から訣別するとともに、健康の法則を蹂躙(じゅうりん)してはならないのである。反感や逆念を起こさず、暗悪(あんあく)の想念感情を起こさず、常に明朗快濶であるとともに他の人たちの幸福をねがって、いやしくも人々に対して何らかの害念をも懐いてはならないということである。
 
他の人々の幸福を願う心のみが自分に幸福を与えるのであり、他の人々の健康を願う心のみが自分に健康を与えるのである。他の人々の健康のために祈れば、自分の内にある不健康の観念が自分から追放されることになるのである。
 
愛する者のみが、必ずしも自分の愛する相手から愛されないにしても、神から愛されるのである。神がその人の味方であるのである。悦べ喜べ、人は常に孤独ではないのである。
 
神はあなたの側に常にい給うのである。神はあなたに常に愛と祝福の微笑を投げかけていられるのである。
 
 
谷口雅春先生著『如意自在の生活365章』P222


 
温かい励ましは愛の注射液
 
 
ひとの過ちをふせいであげることは素晴しいことであるが、失意に堕ちた人を激励して起ちあがらせてあげることは、尚一層素晴しい愛行である。
 
“人間・神の子”の自覚を与えることによって崩折(くずお)れている人に根本的に立ちあがる精神の基礎をきずいてあげることは最高の愛行である。
 
温かい言葉によって人々はその失意から起ち上がる。温かい言葉を投げかけることを忘れてはならない。
 
他に施した愛行は自己の愛行を第三者に示すために言葉で誇示してはならないが、その人には愛語の“言葉の力”を吝(おし)んではならない。愛語を豊かにあめふらすことによって世の中は温かく生きかえったように春光で輝くのである。
 
今、あなたの手許にある仕事を、神から与えられた仕事と思って深切に遂行せよ。
 
今あなたの身辺にいる人々を、神から与えられたる兄弟姉妹であると思って愛せよ。道は遠きにあらず、邇(ちか)きにあるのである。
                             
谷口雅春先生著『新版 女性の幸福365章』P104
 
 
より高き自我からの啓示

 神は自己のうちに宿る、英知は自己のうちに宿る、真理は自己のうちに宿る。
 
自己のうちに、神が、英知が、真理が、宿っていないで、神とか、英知とか、真理とかいうものが自己の外にのみあるものならば、人間は永遠に自由になることはできないでありましょう。
 
神とか、真理とかいうものが吾々の「外」にばかりあるものならば、神とか真理とかに従うということは、吾々自身が「外」から縛られることになりますので、吾々は決して自由になれないのであります。
 
神とか、真理とかいうものが自己の「内」に埋蔵されている神性であるからこそ、神に従うということ真理に従うということが、自己に埋められている真性を伸び伸びと外に出すことになるのであります。

この、自己に宿る真理の「呼び掛け」に心の耳を傾けるとき、われわれは神の無限の英知の導きを受けるのであります。
 
この自己に宿る真理の「呼び掛け」を指してわれわれはあるいは「良心」と言い、あるいは「神示」と言うのであります。「良心」と「神示」とはひっきょう同じものの半面であって、それは「より高き自我」からの啓示であり、自己の「真性」の開示であり、自己に宿る神の声であります。(後略)
 
谷口雅春先生著『生命の實相』頭注版 第8巻42ページ

 





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